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2024昆明金殿英文导游词(汇总5篇)

2024-08-01导游词

2024昆明金殿英文导游词 篇1

  各位朋友,大家好!今天我们将去游览金殿。金殿坐落在昆明东北郊的鸣凤山上,这里古时禽鸟翔集,鹦鹉尢多,人称鹦鹉山。明代又多有孔雀往飞于此地山林,人们以为是凤凰,因此这里又称为“鸣凤山”“山不在高,有仙则名”。在鸣凤山上有许多故事和传说,到时候我将--给各位讲解。

  金殿到了,请大家跟我到“鸣凤胜境”中“寻仙访道”。从山脚过迎仙桥到达“鸣凤胜境”石坊,坊背题书“玉虚孔衢”,玉虚指仙境,孔衢指通道,意思是通往天宫圣境的正道。路边立有“吕祖碑”。上面写着“唐高风正节吕真人洞路”几个大字。相传明朝祟信道教的云南巡抚陈用宾应梦中神仙指引到此相会,遇到一位用两口锅相扣煮芋,绳牵小羊的穷苦老人,只因以貌取人,有眼不识“金镶玉”,辨不出此人正是八仙之一的吕纯阳(吕洞宾),痛失了上天为仙的好机会。痛定思痛,陈巡抚在此建了“迎仙桥”和“吕祖碑”,并认定此地是洞天福地,便修筑了著名的金殿道观。

  从迎仙桥到太和宫途经三道“天门”在宽阔的石级两边,松柏森森、林涛阵阵,步行其间感到天高、山大、路宽、林深、心旷神怕,如临仙境。此间意境用一个“放”字便可概括。“迎仙桥”到一天门有七十二级台阶,一天门到二天门经二十六级台阶,它分别代表着道教的三十六天是,七十二地煞,这一百零八位神仙是玄武大帝的属下。当你步入天门之时,就进入了真武帝君的法门,三座天门又代表了在大罗天之下,三十三天之上的太清天、上清天和玉清天,这是道家认为的最高境界。攀登石级,经过三天门,只有不畏艰苦、攀登求道,才能进入道家最高仙境。

  现在我们到了太和宫。太和宫门外的红墙上有明代留下的“鹦鹉春深”四个大字,写得饱满圆润、苍劲有力。因鸣凤山又被称为鹦鹉山,山中四季如春,春深似海,所以“鹦鹉春深”就题得恰到好处了。进了太和宫门,一座光彩夺目的棂星门矗立眼前。大家请看根星门上的对联:“天台高百尺,东林竹舞,一半青山一半云;帝道满三千,上谷龙飞,无双玉宇无双地。”此联写景抒情,赞颂了秀丽佳景又颂扬了道家的法力无边。

  棂星门一般多建于孔庙之内,棂星指天田星,人们祭祀棂星以祈五谷丰登。门两旁有青狮献瑞、白象呈祥;上端横匾上题有“洞天福地”。棂星、青狮、白象以及道教横匾集中在一起,突出体现了我国寺、观中佛、道、儒三教共处一地的特点。在此建棂星门,表现了道家“尊天必尊道,尊道亦尊天”的思想。

  沿着两旁种满迎春花的小道往前走,望着左右长长的配殿,人行其间,各位一定觉得视线、神情在随之收敛,有一种“庭院深深,深几许?”的感觉。这种意境用“收”字便可概括。上完台阶,眼前这座青砖所围的建筑被称作“紫禁城”,是明朝万历年间陈用宾所建,迄今已有四百年的历史。细看城砖有大小之分。为什么会出现这种情况?原来,小城砖是道光年间遭地震损坏后修补上去的,而大城砖为明朝始筑。城上小楼是供奉魁星的“魁星楼”。城门口右边是明朝所植“玛瑙”茶花,花开九芯十八瓣,直径达七寸。左边是一株玉立婷婷、花大如斗的白玉兰。每到花开时节,茶花红似火、灿如霞,浓装艳丽;玉兰花白似玉、洁如雪,淡抹素雅。两花相映,美不胜收。

  进入城门,眼前一亮,好一座古香古色,钟毓灵秀的金殿,这就是我们今天观光的核心。金殿并非金造,实乃铜铸。明清时期,云南铜产量全国第一,云南东川等地的铜每年都要运到湖北城陵矶铸钱。因战乱道阻,数年生产的铜都未能运出。鹦鹉山道观道长徐正元呈请世袭黔国公沐昌祚和云南巡抚陈用宾,模仿湖北武当山天柱峰铜殿的式样于明万历三十年(1620__年)铸成了第一座铜殿。铜殿建成之时,辉煌无比,金光耀目,称为“金殿”。明朝后期,云南沐氏家运日衰,认为“铜乃西方之属,能克木(沐)”,竟将其败势归咎于铜殿,于明朝崇帧十年(1637年)将第一座铜殿迁到宾川鸡足山。眼前这座铜殿是平西王吴三桂为巩固自己统治地位,为求助于神道庇佑在清康熙十年(1671年)铸造的。

  各位请看:铜殿下筑须弥座式台基,高1.5米,金殿建于两层石砌台基上,第一层为青石砌就,沙石勾栏,栏上浮雕“二十四孝”图,第二层是大理石栏,中间是一条雕有龙风云纹的陛石。独具匠心的须弥座使金殿更加雄伟高大、庄重威严。方形的金殿为仿木结构重檐歇山式建筑,殿高6.7米,宽深同为7.8米,四壁由三十六扇格子门组成,上面铸有龙凤吉祥、花草鱼虫、云龙麒麟等图案,铜殿脊檩上镌有“大清康熙十年岁次辛亥(1671年)大吕月(十二月)十有六日之吉平西亲王吴三桂敬筑”。铜殿四角有盘龙石柱衬托,四周由十六根圆柱支撑,斗拱飞檐、龙飞凤舞、精美无双。这是我国现存最大(占地180平方米),最重(250吨),保存最完好,铸造最精美的铜殿,这是我国的一件国宝,被列为国家级重点保护文物。

  金殿是道教中正一道教派的道观。殿中供奉着真武帝君铜像,高1.5米,披发跣足、仗七星剑、执七星旗,着黑衣、踏龟蛇。真武大帝又称玄武。相传在黄帝时期,净乐园善胜皇后梦游御花园,吞下阳光后十四月,三月初三时左胁裂开产下太子,顿时瑞云缭绕,异香芬芳。太子聪明过人,十五岁时受玉清圣祖点化前往太和山修炼,成道后被玉皇册封为“镇天玄武大将军”,统领北方。而真武修炼的太和山也被改称为武当山,取“非真武不足以当此山”之意。传说在周武王伐封的战争中,真武大帝降服了变化为苍龟、巨蛇的水火二魔,归降后的龟蛇屡立战功,被玉皇封为“太玄水精黑灵尊神”和“太玄火精赤灵尊神”,随真武调用。殿中真武两旁龟将勇猛威严,蛇将气字轩昂。一旁有金童持卷、玉女捧印。道教诸神仙都有作为侍从的金童、玉女。而真武的金童玉女特指周公和桃花女。周公以占封为生、开业三十年从无差错。自从遇上桃花女却屡屡不灵,周公知道桃花女功业不浅,然而心中不服,托人说煤将其娶回家中作儿媳准备慢慢收拾。谁知一害再害无一成功,弄得狼狈不堪。真武大帝出面结束其恩怨复归天位,从此他们就当了真武帝的听差兼秘书,掌握法宝、符印,书记三界神仙的功过善恶,成为真武大帝的得力助手。铜殿柱上有联赞道“威武镇南滇,七星耀处河山朗;神灵终北极,一剑飞来海宇清”。铜殿前后各有一匠,前书“南无量寿佛”,后题“北极玄武”一佛一道。佛道结合,又为金殿一奇。铜殿外有左右相对两个铜亭,内奉水、火二将。在殿右前方有一条高10米的铜制旗杆,上悬“日月七星锁山旌”。七星铜旗高悬,象征北极玄天“普护”生灵。旗上铸有“天下太平,风调雨顺,国泰民安”,旗周围有二十八宿。什么是二十八宿呢?早在远古时候,人们将天上的星辰分为二十八个群落称“二十八宿”,按它们位置分为东西南北四个群落,每方为七宿,根据这些星辰排列的形状想象为青龙、白虎、朱雀、玄武(玄是龟、武是蛇),称为“四象”。“四象”被玉皇封为镇守四方的大神。旗子上端有日月,旗中是北斗七星,整个铜旗为镂空镶嵌。七星旗的建筑年代早于现在的铜殿,是陈用宾建筑第一个铜殿时铸造的。

  铜殿两侧各有一株明代紫蔽,已有四百年历史。紫薇夏初开花,因花期长而红艳又被称为“百日红”。当年吴三桂同陈圆圆游金殿,当寒冬腊月时,人们在殿外烧火炭,通过铜壁传热,室内温度宜人;到三伏盛夏,两人常坐在紫蔽树下谈笑纳凉。

  自进入紫禁城,整个空间急剧收缩、人们的视线和注意力全部聚焦于金殿上,一切的景物都作为金殿的衬托和铺垫,成功地突出了主题,此种意境用个“扬”字便可包括。

  铜殿后面这个院落叫“净乐天宫”。中间修建了供奉太上老君的“老君殿”。回廊小院中桂花叶茂枝繁,花开时节,满院飘香。院落建筑石基高大、四周用围墙围起,一个“抑”字包括了此间意境。

  归结起来,金殿建筑群包括三宫、四门、十大殿。“放、收、扬、抑”四字诀就包含于绝妙的建筑布局艺术中,一放一收、一扬一抑,突出主体,层次分明,创意新颖,有张有弛。

  铜殿北侧是典型的中式四合院,现辟为金殿文物陈列馆。馆内陈列着太和宫保存的明清以来的珍贵文物。包括铜器、瓷器、字画以及真武“伏魔制怪”的七星剑和吴三桂用过的木柄大刀。馆外一字排开,有八个石碑,碑上刻有“紫气东来”、“百鸟朝凤”、“魁星点斗”等反映道家思想的字画。

  令人耳目一新的是“中国金殿博览苑”。此苑于1995年建成。苑中仿照我国现存铜殿按1:2比例用珍贵的楠木经仿铜处理建成。它们分别是北京颐和园万寿山宝云图,清乾隆二十年(1755年)建,重207吨;湖北武当山金殿,明永乐十四年(1420__年)建,80多吨;山西五台山铜殿,明万历三十年(1620__年)建,50吨;山东泰山金阙,明万历四十三年(1620__年)建,20余吨。这些金殿设计精美,轩昂巍峨,充分反映了我国劳动人民的勤劳智慧。通过比较,我们也进一步了解到昆明金殿在全国铜殿中首屈一指的地位。参观完博览苑以后我们出南门,过长廓,但见满山的云南油杉,树龄均在百年以上。此处树木苍翠挺拔,花草郁郁葱葱,微风拂来,满园清香,令人心旷神怕。如沿南侧小路进发便可到达“茶花园”。茶花又称山茶,为云南八大名花之首,也是昆明市的市花。茶花园内植茶l万多株,占地150亩。园中荟萃了云南、广西还有华东等地精品名种。如“狮子头”、“恨天高”、“早桃红”更为难得的还有号称茶花皇后的“金花茶”。金殿茶花园占地面积之大,茶花品种之多,均为全国之冠。每当春寒料峭,满山遍野山茶怒放,花大如斗,红白相间。正所谓“万紫干红,春色满园”,展示了“云南山茶甲天下”的风采。

  山坡上绿草如茵,遥望草坪上“双连六角鸳鸯亭”掩映于茂林修竹之间。在小路两旁,一座座仿青铜雕塑作品映人眼帘,这是金殿公园新建的青铜文化景廊。

  早在3000多年前的我国商代晚期,云南就有了铜矿的开采冶炼技术,开始铸造和使用青铜器。到了距今20__年前后,从战国至西汉时期,出现了高度发达的古滇国青铜文化,它是云南青铜文化的鼎盛时期。我们现在所看到的这些铜鼓、贮贝器铜笙、铜枕、铜俎就是那个鼎盛时期青铜器的仿制品。我们首先看一看滇王金印。1956年11月,在晋宁石寨山古墓群的发掘中,发现了一颗阴刻着“滇王之印”四个篆字的金印,重90克,印面边长2.4厘米见方。上有蛇钮印把,大家仔细看:蛇首昂起,蛇身盘曲,背有鳞纹,十分生动、精美。这一重大发现,证明了古滇王国存在的历史事实,也进一步证实了大史学家司马迁在《史记·西南夷列传》中记载的“庄娇王滇”,以及汉武帝赐“滇王金印”的真实性。大家再过来看,这就是出土于江川李家山古墓中著名的牛虎铜案:一只凶恶的老虎咬住了牛尾,母牛腹下保护着一只小牛。它反映了“不畏强暴”和母爱的主题思想。整个铜案构图新颖,造型完美,重心平稳,动静统一。这个铜案是古代祭祀时用于放置祭品的器物。据说著名物理学家钱学森看过实物后给了极高的评价,他指出:战国时期的这件青铜铸器表明当时的科学特别是力学水平已经十分高超,雕铸品用后尾的虎与硕大牛头构成了平衡,而腹下的小牛又降低了铜案的重心,真是妙不可言。“牛虎铜案”堪称青铜器的珍品,也是云南青铜文化代表和象征。奇特而精美的云南青铜器,有着很高的历史价值、艺术价值和科学价值,是中华民族历史文化遗产宝库中的奇丽瑰宝。

  继续向前,只见一座金碧辉煌,巍峨挺拔的钟楼雄峙于鸣凤山巅,此楼建于1983年,楼高30米,共3层,每层12个飞檐翘角,犹如36只展翅欲飞的“鸣凤”。楼上悬挂着一口铜钟,高3.5米,口径周长6.7米,重14吨,铜钟上铸有“大明永乐二十一年岁在癸卯吉日仲春造”距今已有570多年历史。此钟原排中国古代大钟的第三位:第一为北京大钟寺大钟,铸于明永乐二年(1420__年)重46吨,第二为南京大钟亭大钟,铸于明洪武二十一年(1392年)重23吨。到了1989年,经测定,北京钟楼上的大钟重63吨为“新钟王”,它铸于永乐十八年(1420__年)。这样昆明金殿的大钟退居第四。此钟曾悬挂在昆明宣化楼上,用来报警报时。为了更好保护这一文物,政府拨专款修此钟楼。刚才有一团友提出:为什么永乐年间有这么多大钟?究其原因,在于燕王朱棣借“清君侧”而发动“靖难之役”夺得皇位。战争中死难的将士百姓无数,明成祖上台后又施行“瓜蔓抄”,滥杀建文帝的文武大臣,受株连死伤者数万人之多。为稳定人心,巩固皇位,遂大作水陆道场超度亡灵。永乐大钟就是那个特殊年代的产物。钟内外大都铸满经咒,据说祭祀祈祷时,每敲钟一下,就等于念钟上经文一遍,以此来超度灵魂。上行下效,一时间铸钟之风盛行全国。

  各位团友,今天感觉不虚此行吧?郭沫若先生游完金殿后曾赋诗一首,我把它作为金殿之游的总结:

  天门开胜景,不觉道途赊;

  金殿千秋业,红梅几树花。

  茶香清椅席,松籁净尘沙;

  蝶翅迎风舞,山头日已斜。

2024昆明金殿英文导游词 篇2

  雲南中部には、広大な波光の湖水があり、まるで高原にはめ込まれたきらきら光る真珠のようです。これは古い「雲南南沢」です。昆陽城から一番近いので、「昆陽湖」とも呼ばれています。つまり、人々がよく知っている「五百里テン池」です。昔の詩人は彼女に対して、昆池の千頃の浩海があふれていて、風呂の日の滔々とした天気は洪を量って、峰々を映して鏡の中に来て、雄呑六河は胸の中に入ります。この美しい高原の湖畔に位置する都市は春城の昆明です。昆明は雲南省の省都で、雲貴高原の中部に位置して、四方は山に囲まれて、南はテン池に臨んで、6河は縦横に走って、中間の一馬平川、肥沃な沃な地の昆明のダムを形成しました。

  昆明は雲貴高原の中部にあり、都心の海抜は1,891メートルです。南はテン池に臨んでいます。三面は山に囲まれています。低緯度の高原山地の季節風気候に属して、インド洋の南西の暖かくて湿っている気流の影響を受けるため、日照が長くて、霜の期限が短くて、年平均気温の15℃。気候は温和で、夏は酷暑がなく、冬は寒くなく、四季は春のようです。気候は穏やかで、とても有名な「春城」です。このために前人の詩はその特徴を描写しています。昆明の師走には毛皮がなくてもいいです。三伏の軽綿は汗が流れません。梅がほころび、冬の香りが満ちています。柳舒新歳の葉は濃いです。毎年の12月が来て、年の3月になると、北の海の冷たい風を避けるカモメの群れが遠くから飛んできて、昆明城に住んでいます。

  昆明はまだ自然景観と人文景観の集まるところです。悠久の歴史、独特な地質構造で、昆明に多くの文化財古跡と景色名勝を残しました。昆明市は発展中の国際観光都市で、現在、万博を中心とした自然風景と民族風情を一体化した多目的な四季の観光スポットを形成しています。

2024昆明金殿英文导游词 篇3

  进园门,穿过近华浦,揽胜阁壮丽崇宏,楼槛轩敞;新修的怀古廊萦纡回折,槛外银水玉山;涌月亭和观稼堂树木掩映,花丛环绕,最宜月夜闻笛。观稼堂边花坛里,英国伊丽莎白女王二世栽下的玫瑰花争芳吐艳。彩云崖假山幻奇、玲珑嵌空;溯洄洲四面环水,秀坪如茵。过燕语桥继续西行,积波堤压浪卧波,而大观楼则耸立于前,更有那古今传颂的“天下第一长联”,使人留步观瞻。

  清乾隆年间自称“万树梅花一布衣”的`寒士孙髯翁所撰180字长联,一扫世人俗唱,蕴涵了深厚的社会历史内容,惊动一时。今存大观楼长联有两幅。一幅是与孙髯翁同时的昆明名士陆树堂用行书体书写刊刻,挂在大观楼二楼。另一幅则是清光绪十四年(1888年),由云贵总督岑毓英托赵藩书写,请工匠刊刻后挂于楼下,即今蓝底金字联,长联系木制,为覆瓦形。上下联各90字,字系颜体楷书,刚劲圆润,颇具功力。长联曰:

  五百里滇池,奔来眼底。披襟岸帻,喜茫茫空阔无边。看:东骧神骏,西翥灵仪,北走蜿蜒,南翔缟素。高人韵士,何妨选胜登临。赴蟹屿螺洲,梳裹就风鬟雾鬓。更苹天苇地,点缀些翠羽丹霞。莫孤负:四围香稻,万顷晴沙,九夏芙蓉,三春杨柳。

  数千年往事,注到心头。把酒凌虚,叹滚滚英雄谁在?想:汉习楼船,唐标铁柱,宋挥玉斧,元跨革囊。伟烈丰功,费尽移山心力。尽珠帘画楝,卷不及暮雨朝云。便断碣残碑,都付于苍烟落照。只赢得:几杵疏钟,半江渔火,两行秋雁,一枕清霜。

2024昆明金殿英文导游词 篇4

  みなさん、こんにちは。今日は金殿堂を見物します。金殿堂は昆明の東北郊の鳳凰山にあります。昔は鳥が集まっていました。オウムが多いです。オウム山と呼ばれています。明代は孔雀がここの山林に飛んでいます。鳳凰と思われています。ここでは「鳴鳳山」とも呼ばれます。「山は高くないです。仙人の名前があります。鳳凰山には多くの伝説と呼ばれています。その時は--解説します。

  金殿堂に着きました。私と一緒に「鳴鳳勝境」の中の「尋仙訪道」に行ってください。山のふもとから迎えの仙橋を渡って「鳳凰勝境」の石坊に着きます。坊背書「玉虚孔巷」、玉虚は仙境、孔衢は通路を指します。天宮聖境に通じる正道という意味です。道端には呂祖碑があります。上には「唐高風正節呂真人洞路」という大きな字が書いてあります。明朝は道教を信じていたと伝えられています。雲南巡撫陳用宾は夢の中で神様に導かれてここで会いました。鍋二つで芋を煮たり、子羊をつないだりする貧しい老人に出会いました。外見だけで人を取って、「金玉」を知らないので、目があります。この人はまさに八仙の一つである呂純陽(呂洞賓)で、天が仙人であるという良い機会を失いました。心を痛めています。陳巡撫はここに「迎仙橋」と「呂祖碑」を建てました。そしてここは天地の福地と認定して、有名な金殿堂道観を築き上げました。

  迎仙橋から太和宮までの道は三つの「天門」を通じて広い石段の両側にあります。松柏森、林濤はひとしきり歩いています。天の高さ、山の大きさ、道の広さ、林の深さ、心の広さ、仙境に臨んでいるような感じがします。この境地は一つの「放」の字で要約できます。道教の三十六日は七十二地で、この百八人の神仙は玄武大帝の配下です。天門に入ると、真武帝の法門に入りました。三つの天門はまた大羅天の下で、三十三日以上の太清天、上清天、玉清天という道家が思っている最高の境地です。石段に登って、三日間の門を通ります。困難を恐れず、道を求めてこそ、道家の最高仙境に入ることができる。

  今は太和宮に着きました。太和宮の門の外の赤い壁に明代が残した「オウム春深」という四つの大きな字があります。豊かで力強く書いています。鳴鳳山はオウム山とも言われています。山の中は四季が春のようです。海のようです。だから「オウム春が深い」というのはちょうどいいところに書いています。太和宮門に入りました。目を奪うような連座の星が立っています。星の門の対聯をご覧ください。

  格子星門は孔廟の中に多く建てられています。格子星は天田星を指しています。人々は五穀豊穣を祈るために連星を祭っています。門の両側には青獅子献瑞、白象があります。上端の横額には「洞天福地」と書いてあります。連星、青獅子、白象、道教の横額が集まっています。我が国寺、観中仏、道、儒の三教が共存しているところが強調されています。ここに星格子を建てます。道家の「天を尊ぶは道を尊ぶが、道を尊ぶは天を尊ぶ」という考えを表しています。

  両側に春を迎える花を植えた小道に沿って前に行くと、左右の長い本堂を眺めています。その間、皆さんはきっと視線や表情が収斂していると思います。「庭が深くて、どれぐらい深いですか?」という感じがあります。このような境地は「収める」という字で要約できます。階段を上がってから、目の前の青いれんが囲んでいる建物は「紫禁城」と呼ばれます。明朝の万暦年間の陳用賓が建てたものです。今まで四百年の歴史があります。城のタイルの大きさをよく見てください。なぜこのような状況が現れたのですか?もとは、道光年間に地震によって破壊されたものです。大城れんがは明朝から築かれました。城壁の上の小楼は、大きな星を祭る「魁星楼」です。城門の右側は明朝に植えられた「瑪瑙」のお茶の花が咲いています。九心十八弁が咲きます。直径は七寸に達しています。左は玉立婷婷、花は斗のように大きい白玉蘭です。花が咲く季節になると、椿の花は火のように赤く、霞のように輝き、濃厚な装いは鮮やかです。

  城門に入ると、目の前が明るくなります。古めかしい、鍾毓霊秀の金殿です。これが私達の今日の観光の核心です。金殿は金造ではなく、銅鋳造です。明清の時期には、雲南省の銅生産量は全国一で、雲南東川などの銅は毎年湖北城の陵で磯銭を鋳造します。数年生産した銅は全部運び出せませんでした。オウム山道観道長の徐正元は世襲貴州国家沐昌皇帝と雲南巡撫陳用賓館を申請しました。湖北武当山天柱峰銅殿の様式をまねて、明万暦三十年(1620__年)に第一銅殿を作り上げました。「銅は西方の属で、能克木(沐)」という考えは、その敗勢を銅殿のせいにし、明朝の崇フレーム十年(1637年)に第一の銅殿を賓川鶏足山に移しました。

2024昆明金殿英文导游词 篇5

  太和宫金殿,又名铜瓦寺,坐落在昆明城东北郊鸣凤山,俗名鹦鹉山。鸣凤山原名相度山,明万历年间始创太和宫金殿以后,改称鸣凤山,系明代以来云南著名的道观风景名胜区。

  清光绪十六年(1890年)舒藻《重修太和宫碑记》详细记载了太和宫创建的历史:“滇南苴兰(昆明)会垣东关外,距城十五里许,有山鸣凤,又俗名鹦鹉山。前明万历壬寅年(1620xx年),道士徐正元叩请云南巡抚陈公用宾,会同黔国公沐公昌祚,右都督沐公睿,御使刘公会于是山之巅,仿照湖广武当山七十二峰之中峰修筑紫禁城,冶铜为殿,铸供真武祖师金身。名其宫曰‘太和’,亦仿照武当山中峰宫名也。其时并建三元、环翠二宫,所供圣神仙佛,各有专司,瞻拜者历历可溯。而其殿宇,概以‘太和宫’统之。其地左挹华山之秀,金马腾辉;右临昆海之滨,碧鸡焕彩,洵为滇南一胜境也。乡人称之或曰金殿,或曰金顶,任其信口而出耳。”

  这段碑文依据史料,叙述了仿湖北武当山始创昆明太和宫金殿的时间、创始人、冶铜为殿、供奉真武金身的道观规模,以及鸣凤山的山势。明万历三十年(1620xx年)道士徐正元“叩请云南巡抚陈用宾”,陈用宾会同黔国公沐昌祚、右都督沐睿、御使刘会,同登鸣凤山巅,商定仿武当山中峰兴建太和宫。这与明万历甲辰年(1620xx年)正月太和宫创始人陈用宾所撰《鼎建太和宫记》是一致的。舒藻的碑记用白话叙述,通俗易读。陈用宾的碑记文言纪事,不容易读。

  舒藻碑文中所说:“其时并建三元、环翠二宫”一段不准确。其实创建太和宫前七年,就已建“环翠宫”。陈用宾撰《环翠宫记》称:“余抚滇之三年,命官于鸣凤山建环翠宫,其中为阁,祀吕师(吕洞宾),殿有二,王、陶天君,何、柳二仙并祀阁上。” 陈用宾,福建晋江人,明进士,万历二十一年(1593年)以右佥都御使巡抚云南。陈用宾“抚滇之三年”,即万历二十三年(1595年),他“命官于鸣凤山建环翠宫”。万历三十年(1620xx年)“叩请”陈用宾兴建太和宫金殿的“道士徐正元”,就是环翠宫的道士。

  正如陈用宾《鼎建太和宫记》所述:“及抚滇之九年”,即万历三十年(1620xx年),陈用宾“偕卜胜东城,相度山原间几一舍许无当者,延伫环望,真气英英,连蜷环翠宫左,扪萝视之,适彩雉从中盘起,玉局宛然,无亦光岳之閟有待欤?” 陈用宾偕沐昌祚、沐睿、刘会等登相度山,卜胜选址,已见山势“连蜷环翠宫左”。这清楚说明,明万历三十年陈用宾为太和宫选址时,已有环翠宫。太和宫金殿、三元宫于明万历三十年(1620xx年)动工兴建,“始事竣工,俱以王正之月,甫一载而缮定”。“万历甲辰(1620xx年)岁春正月吉旦”,陈用宾撰立《鼎建太和宫记》。

  民间传说陈用宾曾在鸣凤山“三遇吕洞宾”,是吕仙引示他鸣凤山是“洞天福地”,所以他“抚滇之三年”即“命官于鸣凤山建环翠宫”,“其中为阁祀吕师”。环翠宫建成后,陈用宾曾撰楹联:

  春梦惯迷人,一品朝衣,误了九寰仙骨,鸡鸣紫陌,马踏红尘,军门向那头跳出?

  空山曾约伴,七闽片语,相邀六诏杯茶,剑影横天,笛声吹海,先生从何处飞来!

  陈用宾身居云南“军门巡抚”,既迷恋官场“一品朝衣”,又向往道教“九寰仙骨”,矛盾的心情,只有请问“剑影横天,笛声吹海”飞来的吕仙人,他该“向那头跳出”?

  陈用宾《建太和宫记》开头有这样一段话:“考玄帝天乙之精,乘玄枵当帝座,迹最著于太和,贞观而还,代能尊祀。我成祖文皇帝穆有遐思,式廓其制,千古让隆焉……”说是真武玄帝系“天乙之精,乘玄枵当帝座”,真武神迹,太和山(即武当山)最著名。从唐贞观年间以来,世代尊祀。明成祖朱棣崇信真武,敕令大修武当山,千古隆重奉祀真武。武当山有“真武神,永乐像”的传说,以后天下真武宫都按这“永乐像”塑真武。

  明崇祯十年(1637年)金殿移到宾川鸡足山,史志碑记所载是一致的。明崇祯十年(1637年)云南巡抚张凤翮将铜殿移到宾川鸡足山天柱峰。天柱峰为此又称“金顶”。鸡足山铜殿毁于1966年“文化大革命”“扫四旧”期间。张凤翮移铜殿时,太和宫铜殿的基座、下层平台砂石浮雕栏杆未拆,保存至今。

  清康熙年间重建鸣凤山太和宫铜殿,“范铜至五百余万之多”(250吨)。1980年清洗铜殿烟尘污垢时,发现铜殿正梁上通体被烟垢覆盖的铭文,梁中间的字被藻井遮盖,我爬上去看是“大清康熙十年岁次辛亥大吕月十有六日之吉平西亲王吴三桂敬筑”。铭文证实清康熙九年(1670年)吴三桂修葺太和宫,重建真武铜殿,铜铸神像,竖“铜幡竿十余丈,亭亭特立”。康熙十年(1671年)十月十六日竣工落成。因吴三桂康熙十二年(1673年)举兵反清,故方志碑记只称“清康熙九年重铸”,回避是吴三桂重铸铜殿。

  吴三桂重建真武铜殿后,铸了一口“七星宝剑”悬挂在铜殿内,这就是碑记中所载真武“慧剑高悬,常伏魔而制怪”。吴三桂又将其使用过的一把木柄大刀,重12斤(6公斤)留在太和宫,以炫耀其武威。

  铜殿正面,清康熙三十三年甲戌(1694年)云贵总督王继文书悬“南无无量寿佛”铜匾。“无量寿佛”即“阿弥陀佛”,不少人感到疑惑,一代名儒的云贵总督,为什么在真武道宫挂佛教匾?武当山记载,永乐十四(1420xx年)武当天柱峰顶建真武铜殿时,峰巅咫尺地盘上已有佛教无量寿佛殿,佛道互不相让。得知建铜殿是圣上旨意,佛家折中,“让地不让佛”,真武殿上挂“无量寿佛”匾,朝拜真武同时,也颂“南无无量寿佛”。鸣凤山太和宫仿武当山中峰兴建,王继文依据武当山典故悬匾。

  清道光二十五年(1845年)《重修二天门碑记》记载了清代昆明两次地震的情况:“乾隆年间,滇省地震,星旗救劫,厥有灵徵”。这次地震影响不大。道光“十三年(1833年)七月二十三日,滇地大震,復得殿宇牌坊,客座茶房,震摇摧坏。”太和宫更大的劫难是咸丰年间,太和宫毁于兵燹,三元宫化为灰烬。每一次损坏后,都不同程度地进行了修缮。其中,光绪十六年(1890年)至光绪三十一年()前后十五年间,太和宫住持李明清劝募“缙绅王炽、余安转禀督办云南矿物、前巡抚唐公炯,倡铸铜一万斤,并遍约同人,量力捐助。铸造亭子、侍座神像、格扇瓦片,并重修山门、牌坊、殿宇,众作新之。”

  太和宫金殿于1950年军事接管,定为“昆明市金殿名胜区”。先后隶属文教局、建设局、文化局、园林局管理。1966年“文化大革命”“扫四旧”期间,各殿泥塑神像被破坏,殿宇坍塌,荒烟蔓草。1968年又将太和宫划属昆明力车胎厂作宿舍,1970年由昆明市城建局收回。

  粉碎“四人帮”以后,逐年修复古建筑,重建雷神殿、老君殿、三丰殿,翻修三座天门、棂星门,新建长廊亭台,局部维修明代城墙。1983年兴建山巅钟楼,保护原昆明城宣化楼之明代永乐大钟。

  1983年至1991年,在鸣凤山东面、南面新征土地273亩,兴建占地500亩规模的“昆明园林植物园”。园林植物园分为十二个专类花卉园区茶花园、温室花卉区、杜鹃园、水景园、木兰园、蔷薇园、竹类植物园、裸籽植物区、珍稀濒危植物区、造园示范区、鹦鹉园(盆景区)和雪松草坪园。省、市政府先后投资达800余万元。

  为迎接1999年在昆明举办的世界园艺博览会,1997年至1999年,市政府先后在鸣凤山金殿投资20xx万元,全面维修太和宫古建筑群,整修钟楼,开辟钟楼旅游服务区,兴建大型观赏温室,新建杜鹃精品园,开发兰圃和蕨类植物园,重建秋园餐厅,改造旅游招待所,重建园内旅游厕所。在金殿自筹资金兴建“中国金殿博览苑”的基础上,进一步开发金殿青铜文化旅游景点……这次整治修建,为太和宫金殿创建四百年来规模最大的一次修葺和兴建。金殿名胜区1999年跻身云南省一流风景名胜区。

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